幸せの探検

東京とハワイで自由気ままに活動中。ヒーリング・スピリチュアルカウンセリングのサロンを営んでいます。http://laral-ight.net/  幸せはなるものでなく感じるもの。夢を叶える、幸せに暮らす、自分の人生を生きる、地球とか宇宙とかをテーマに書き散らかしています。

「豊かさ」=「人の眼差し」をシェアするという考え方

春分の日の出来事をまだ整理できていませんが、今率直に感じていることがあります。

 

それは「豊かさをシェアする」ことの意味あい。

受け取る報酬が経済的なものだけではなく、表彰や昇格の方がモチベーションが上がることが心理学的には分かっていますす。だから、「賞賛」「栄光」「祝福」も豊かさではないかと。

 

何かを成し遂げようとした時、それが大きい事であればあるほど、協力者が不可欠になってきますね。

でも、サポート役や下支えしてくれた人には「影の立役者」という言葉があるように、影になる。栄光を浴びる光の影になってしまう。

 

これからは、それが役割とか固定化されたものではなく「運動」していくようになるのではないか、と思っています。表舞台に立つことが得意な人、不得意な人、影で支えることが得意な人、不得意な人。それぞれ、経験や特性があると思う。

 

「賞賛」「栄光」「祝福」などが得やすいのは、どうしても「光」側の位置、立場に居た人だったのではなかろうか、と思うのです。

 

私は、それも「豊かさ」の一つの側面だと感じた。

その豊かさの側面を分かち合うこと、これは「光」側の位置からのサポートがないと、難しいのではないでしょうか。

 

影をサポートする光の存在。

光が影の役割をする、ということ。

 

影を自分の戒めとして配置するのではなく、光が影の存在としての役割を担った時、陰陽が躍動し続け、永遠が生まれるイメージができるようになるのだが、それは私だけでしょうか。

 

この事を、ある人は「一肌脱ぐ」と表現した。

それは、自分の利や功績などは一切評価されなくていい、その人の為に、その何かのために動こう、という「気骨がある、気概がある、きっぷの良い」立場を取ることだと私は思うのです。

 

影の立ち位置を取ることに抵抗のない人たちは、ただただ役割に徹して貢献する。その在り方だけが自分や天の想いに正直であればそれで満足という人たち。貢献する先の人たちや何かに恩恵があればいいと満足する人たち。

 

それを、「おかん」とか「女性」と呼ばれたかもしれない。

だからおかんに、女性に光を当てよう、ということではなくて、そもそも言葉に含まれる文脈や定義からも開放されて、「ヒト」として、光や影の位置を交合に取って行ったら、というか取り合ったらいいのではないかと思うのです。

 

簡単にいえば「主婦」「主夫」と固定された立場にいるのではなくて、必要な時にそれぞれがその立場を取れば良いのでは、というのに近いかな。

でも、どちらもできるようになるということは、それぞれが得意分野を不得意な人にサポートしてあげる、という七面倒臭いことが必要になるわけです。

それを昔の人は、「一肌脱ぐ」という表現をしたのではないでしょうか。

 

光を人の眼差しと解釈するならば、たくさんの眼差しを分かちあう、ということだと思います。

なぜそれが必要なのか。

影(の存在)は固定化されると、「恨みつらみ」に化学反応が起きやすいからです。人はやっぱり他者の眼差しが必要なんです。

 

影の存在は、またコントロールや支配力に転化しやすい側面もあります。そうやって、自我や承認欲求を満たすのではなくて、人の眼差しに触れる機会を得たらいいじゃないのと。

今までは、そられは自分のカルマ的な精算でしょうと、いう言わば「自業自得」的な働きや作用と考えていましたが、運動を起こしていくためには、光側のサポート(影側に回る)もいるのではないか、と思った次第です。

 

それは、男性が積極的に下支えになる役割を担ったり、知名度の高い人たちが後援になったり、という働きの中に見えるものかもしれません。「胸を貸す、胸を借りる」というような言葉が近いかな。

 

そこに流れるエネルギーに呼び方をつけるなら、それが「愛」なのではないかと思います。

 

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