Change the Future

IT系のエンジニアから、中国にて外資系企業で国際感覚を学ぶ。エグゼクティブ向けのパーソナルコンサルティング、日本人が世界に出て活躍するためのサポートをしています。http://future-makers.net/

七夕の夜に リストランテ・マッサ

イタリアンの巨匠のお店

恵比寿にある、リストランテ・マッサに行ってきました。

 

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アミューズは、アンチョビオイルに漬けたオリーブ。


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こちらのワインは、

お任せで出してくれるコースワイン。

まぁ、さすがソムリエセレクトだけあって、旨い旨いって

主人がうんうん唸っていました(笑)


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前菜の盛り合わせ

キレイですね〜


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温かい前菜

私のセレクトは、カツオの香草焼きとラビコットソース。

カツオって言われないとわからないくらい、癖がない一品。


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主人は鱧の山椒ソテー

山椒の香りが抜群で、夏を先取りという感じ。


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このワインが大のお気に入りになっちゃったそうで。

この世の最後に飲めるならこれがいい、ってくらい

気に入ったそうです(笑)

シャルドネを樽で熟成させているので、スッキリしていて甘くないのにとても芳醇な香りがするのです。

 

南イタリアの、この農園に行ってみたいとのことで

いつか一緒に行けるといいね。

 


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アスパラソバージュというアスパラとはなんら関係ないパスタ。

ちょっと粘りがある野菜で、濃厚なチーズの香りと絶妙にマッチしています。


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ズワイガニのトマトソース。

うまくないわけがないです。


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二番目のパスタ

イタリアのきのこのボロネーゼ。


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主人の二番目のパスタ

ラビオリの中に、あま〜いかぼちゃのペーストが入っていて

上には夏トリュフが…

これはヤバイ…と

目をつむって無言で食べてしまったヒトサラです。


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私のメインは、子羊のソテー。

柔らかくとってもジューシーです。


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主人のメインは、短角牛のソテー

まぁ、こちらも赤みなのに柔らかい。。


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食後酒にグラッパをセレクト。

3種類から選べます。


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山梨県産のベリーAで作った、グラッパ

主人いわく

さすが国産、雑味が一切ないって言ってました。

これは醸造家の技術の問題ではないかと。


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私は素直にデザートを頼みます。

マンゴーのシャーベットが酸っぱくって美味しい〜w

カップに入っているのは、なんとトウモロコシのパンナコッタ。


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主人はチーズの盛り合わせで

グラッパをちびちび楽しんでいます。

 

 

食事を終えるころ、主人と二人で

少し神妙な面持ちに…

 

なんと、こちらのお店のマスターが3月に亡くなっていたんです。

恵比寿の美容室帰りの主人から

「美容室で聞いたんだけど、マッサの大将亡くなったんだって」

「えー!!!!!なんでっ!」

 

食後のお茶をいただきながら、

大将との思い出を語らいます。

 

随分前から通っていますから、、なんというか

元気で変わらないと思っていた人が、いきなり居なくなるショックと

師匠の店を継いでいる弟子の方と奥様の

よくぞ店を閉めようと思わず、続けてくれたという感謝と

これから大変じゃないかな、という労いと

伴侶の死からまだ三ヶ月か・・・

心痛を察して余りあるなぁと、

様々な想いがよぎります。

 

二代目っていろんな意味でそうとう大変です。

でも、やっぱり師匠を超えたるで!っていうゴールを作って欲しいなと思います。

 

とにかく今は大将の冥福を祈ろうね、と

二人でうなずきながら、会計を頼みます。

 

実は、七夕なので浴衣を着て来たんです。

「まぁ、上手に着付けていらっしゃいますね〜」と

奥様に帰りがけにお声を掛けていただきました。

私も着物大好きなんですよ〜とのこと。

 

ー今日、七夕だから浴衣で来たんです♪

とお伝えしたら

「まぁ!そう言えば、今日七夕でしたね!そういうの、素敵〜☆」

と奥様に満面の笑顔が。

 

あぁ、主人が喜んでくれるかと思って浴衣着たい・・・でも外は雨。

雨で汚れるし、どうしようか散々迷ったけど

奥様がふと無邪気に笑った表情に

あぁ、、着てきて良かった…って思いました。


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我々は、ただの何も事情の知らないただの客として

もてなしていただき、おいしい食事をし

また来ますと言って、ココロの中で健闘を祈りながら

また雨の中を家路にと店を後にしました。

 

実在と存在の違い

また、小難しい表現をするとアクセス数がぐっと落ちて

「あちゃぁ〜…」と感じるので

なるべく簡易にしたいのですが、、

 

「実在」と「存在」の違いが分かる

そういう概念を持っていると、世の中の無益な摩擦や葛藤から

開放されることがけっこうできるんです。

 

「神様系」「宇宙系」「エネルギー系」の真実を論じて

無用な時間とエネルギーを浪費せずに済むようになります。

 

論じるのが大好きな人達も居ますから

それはそれでエンタメとして楽しんだらいいと思うんですが

 

何が真実か、否か…で突き詰めていくと

大変な蟻地獄を味わう羽目になります。

 

なぜって、

3次元上で、永遠に触れたい

と願うのと一緒のことだからです。

 

3次元上(=この世)で

「無限」や「永遠」には、見ることも触れることも出来ません

認知できないんです。

 

あの世を論じるとは、あの世の真実を追求することは

そういうことです。

上座部仏教では、一刀両断。

お釈迦様は、「この世にいる時にあの世のことは考えんでよろしい」

とおっしゃっています。

言い得て妙ですね。

 

でも、現実に

神を見ました!体感しました!経験しました!って

話が世界中にごまんとあります。

 

これらの扱いはどうするんだ?

ということになりますが

ここで「実在」と「存在」の違いが分かっていると

便利になるんです。

 

物理空間上である、ない、を論じて

「ある」とするのが「実在」です。

こころという情報空間上で

「ある」とするのが「存在」です。

これを統合して理解しておくと

とても便利な使い方ができるようになります。

 

何も否定せず、何も肯定しない

でも矛盾していない

ということが可能になるのです。

 

「魂」とか「霊」とか「神」の次に厄介な定義がありますが

これも「存在」として認めることができます。

でも「実在」は極めて怪しいのです。

本当にあるか、ないか…証明できないものだからです。

 

臨終の際の重さを測ると21g減る…ってやつですが

質量があるってことは

魂は物質ということになってしまいます。

 

物質であると、有限になるのです。

え、魂って無限の存在じゃないの?とそもそも自己矛盾を生じてしまいます。

この世で証明できるものは、この世にあるものでしか証明ができません。

これこそがパラドクスになるわけです。

 

まぁ、実際に確実なものって無いんです…って証明ができちゃいましたから

この世に「確実で完璧なものはない」=「神という完璧な存在はありません」

と証明が20世紀にできちゃったんですね。

これが不確定性定理です。

 

でも、ココロの中という

極めて抽象度が高い「情報空間」ならどうでしょう。

心の中は3次元にとらわれず

時空を超えて存在ができる「場」です。

夢の中でもいいんですが。

 

思い出の中、記憶の中にありありと「存在」する姿は

まさに「居る」わけです。ちゃんと「ある」。

 

「存在」と「実在」の違いがわかれば

宗教戦争などは、起こる機会がぐっと減るでしょう。

あなたの考えは間違っている!という機会がぐっと減るのでね。

 

この世にいるのか居ないのか

私のこころにいるのか居ないのか

 

ぜんぜん問うてる次元が違うのです。

 

で、存在があるかないかが「信仰心」というやつになります。

人の心の中にケチつけんなよ、と思うんですが

世の中には気になる人が多いみたいですね。

私の信じている「宇宙」や「神さん」が正しいんだ、と。

 

少し話は変わりますが、

不幸にも若くして身内を亡くした方がいるとします。

何人か実際に知り合いがいますが

本当に仲良しだったので

その悲しみや喪失感は想像を絶するだろうなぁと思います。

 

あの世でも、どこでもいい

生きていて欲しいと願う、気持ちはわかるように思います。

あの世で幸せに暮らしている…

そう考えると、安心ができるのです。

 

生まれ変わったら、また会いたい

そう願うことで落ち着くことが出来ます。

 

私はそれでいいと思うのです

 

この「生まれ変わったら会える世界」が

本当なのかどうか

実在するのかどうか?

この議論をするからややこしくなる。

 

実在を肯定すると

輪廻転生を奴隷制度に応用することもできるのです。

現に「聖戦」で死ぬと「処女72人と交われる天国に行ける」

輪廻転生システムを利用して自爆テロができる人材を育成していますね。

あの世という世界を利用して

命を軽くすることにも応用ができるのです。

どんだけ強欲なんだと思いますが(笑)

 

また、亡くなった人のことを

寂しい辛い、なぜ居なくなってしまったのか…と

嘆き悲しんでいると浮かばれないという

考え方もあります。

 

本当に、この世で生きている人の未練が引っ張って

亡くなった人はあの世にいけなくなるのでしょうか?

 

この問は、実在論です

 

でも、存在論として話をするならば

いくら悲しみや喪失感を感じていても

前に進むことが出来ず

その人は時間が止まったままとなり

自分の人生を生きることができなくなってしまいます。

 

だから、あの世にいけなくなるから

あの人のために、悲しむのをやめよう

自分の悲しみを乗り越えようとするエネルギーにすることができます。

 

大きな悲しみを抱えている時に

我に返るのは至難の業です。

でも、悲しんでいる対象のことを本当に思うなら

自分がしっかりしなくっちゃという

気持ちになって立ち上がることができるでしょう。

 

これが「存在論」の活用です

 

ココロの中で、亡くなった人のことを想うのです。

ちゃんとあの世に行けるように

前に進もうとすることができるのです。

 

真実はどうなんですか?

って探求したい人は

永遠を3次元で探すような旅に出ればいいでしょう。

 

ココロの中に実在を許す

これが存在している、という感覚なのかなぁと思います。

 

私の心にはいないものだけど

あなたの心の中にはいるのね

 

というのもありでしょう。

 

話はまた飛びますが、

心の中には自分ひとりだけしか居てほしくない!

というのを「独占欲」と言いますね。

 

でも、どうでしょう。

独占欲に縛られて窮屈な思いをさせられる彼氏・彼女と

 

『気になる人も含めてまるっとあなたのことを愛してあげる』

 

なんて、まるで魔力のような力を持ったエネルギーで

包まれてしまうのと

「ほぇ〜」っとお腹を出してしまいそうなのは

どちらでしょう?

ということなのです。

 

人は、物質の空間だけが「現実」と思っていますが

そうではありません。

心の中の「空間」も含めて

というか混在して、実は「現実」を味わっています。

 

あの世とこの世をどう定義するのか。

この問いこそが、実在論の果てしない戦いとなります。

この世の中の「ココロの空間」は

実は誰でも日常的に使っている空間なのです。

 

相手の中のココロの空間は

分かったり、分からなかったり

つながっていたり、つながっていなかったり

秘密にしておきたかったり、分かってほしかったり

厄介な場所です。

 

でも、ここに気がついてものごとを見ていくと

あまり争いや、葛藤や、摩擦にならないことが

往々にしてあるのです。

 

こうやって、哲学的な記事が続くと

あー、アクセス数落ちるだろうなぁ(笑)と思いながら

 

いつかどこかで、誰かの役に立つようにと思って

思いついたことを今日も書いています。

 

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欲は認めたほうがいいのか、欲は無いほうがいいのか

「欲」「煩悩」「自我」

これらの扱い方は、とかく人類を悩ましているものです。

 

悟りを開きたい人たちは

徹底的にこれらを持たないようにと努力します。

 

欲を消そうとするのは

欲がある前提を肯定しているので

なかなか大変です。

 

欲求を感じなくするのは

抑圧して、無意識下に閉じ込めてしまう危険性があるので

これもなかなか大変です。

 

では、欲を認め

欲深く生きていけばいいのかー

エゴエゴの自己中心的な振る舞いは

時に人にとんでもない迷惑をかける危険性がありますね。

これもなかなか大変です。

 

私は、欲は成仏させるべし

と考えています。

 

欲を成仏させるって、どういうことでしょうか。

 

欲は叶うと成仏します。

でも、人は「もっと」「もっと」と大きな刺激を求めたり

「更に上」「更に上」と向上心もあるのです。

 

一つ叶っても次が出てきます。

永遠に成仏しなさそうですよね。

 

おそらく「もっと」「もっと」が出てくるのは

本当の願いを認識できていないときです。

 

そして、本当に願望が成仏ができるのは

「小我」ではなく「大我」や「真我」と呼ばれる状態になったときです。

 

簡単に言えば、欲が小さすぎるのです。

自分の欲だけ果たそうとするから、問題が起きます

 

自分を含むみんなの欲をまるっと果たそうとすればいいのです。

 

小さい枠組みで見ると、利害関係や異なる立場が見えて

それぞれの欲がバラバラに見えてきます。

 

極端な話、ウィルスは人類をかなり殺しましたが

人の中で生きているウィルスは

人類を絶滅はさせていないのです。

 

敵対関係に見えますが

共生しているんですね。

 

だから、抗生物質で徹底的に撲滅をはかるより

なんとなく丈夫になっていく薬を考えたほうが

方向性としては合っているのです。

現に、抗生物質に対抗して新種の強いウィルス(今までの薬が効かない)がどんどん出来てきてしまっています。

 

一見、「良くないもの」は

我々のDNAに突然変異を起こしたりして

やっぱり進化に一役買っているわけです。

 

ウィルスを征服しようとせず

人類が健康で丈夫になっていくには〜を考えるのが

適切な範囲の欲、ということではないでしょうか。

 

さて、どうやって成仏させるか

に話しを戻すと

 

まず、自分の欲が小さすぎないか

チェックしてみてください。

 

自分の望みが、

誰かを幸せにするか、不幸にしないか

これを考えてみるとのです。

より大きな枠組みで言えば

自分の望みが

地球を幸せにするか、不幸にしないか

となるでしょう。

 

これがOKであれば

 

その欲求は、本当の望みであるか?

これをチェックしてみてください。

 

これは、結構たいへんです。

本当は、自分の見たくないものへの代替案であったり

ストレスや欲求不満をごまかすための手段であったり

自分のほんとうの欲求への目くらましだったりします。

 

例えば、

ブランド品に囲まれたい人の中には

自分に自信がなく、フェイク(偽物)と感じるのを

ごまかすための手段にしてしまっている人もいるのです。

 

あってもなくてもいいけど、

あると嬉しい

 

くらいの欲求だったら問題ないはずです。

 

成仏するというのは

満足するという感覚です。

 

こだわらず、抱えず、引きずらない。

 

何が満足をさせなくしているのか

こだわったり、抱えてしまうのは、欠乏感が満たされていないからです。

最大の課題は

 

何に欠乏感を抱いているのか

 

これを見つめることは

時としてしんどいことです。

 

でも、人生に欠乏感を感じているほどに

満足がいく人生は遠のいてしまいます。

 

幸せになる、とはずいぶんと抽象的な言葉です。

 

毎日の生活に満足感があるか?

これは、ぐっと問題を身近にして見つけやすくしてくれます。

 

師範は、「こうなってほしい!」という結果を

できるだけ手放せ、と言います。

こうだ!と確信して、たんたんとやるだけだ、と。

 

結果が思い通りに行くときは「ゾーン」に入っている時で

雑念がなく、最大パフォーマンスが出る状態の

身体や意識の状態であるはずだ、と。

 

このゾーンに入っている状態を作るには

欲との付き合い方をうまくやらないといけないのです。

 

悟りを開きたい、これも欲です。

だから、本当に悟りたい人たちは

「悟るぞ!」を手放し

たんたんと修練を積むんですね。

 

さて、

あなたの欲望はなんですか?(笑)

 

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個性の大切さ、素晴らしさ

ある有名なお寺の住職様の講話を聞く機会がありました。

 

座禅の修行が終わると、その後でお茶を飲みながら

お話しをお聞きする機会があります。

 

ご住職も修行時代があり(当たり前ですが)

修行時代にはその当時の住職様から

いつも「禅問答」を渡されたそうです。

 

禅問答は、修行僧により問いが異なるそうです。

日の浅い人と、修行を積んでいる人には

異なった問いが渡されるということですね。

 

どんな問題を頂いたのか。

また、同じ問題でも「自分はどう考えているのか」

同じ修行の身の間で、よく話題になったそうです。

 

ーあの人の考えは素晴らしい

ー自分の考えはこうだと思う

 

いろいろ考えた末に、

気がついたそうです。

 

自分から出てきたものが

やっぱり自分のものであって

誰かの素晴らしい考えは、自分のものではない。

同じ問いでも、それぞれの答えがあってよいのだ、と。

 

自分の考えが正しいのだ、と頑固になるでもなく

あの人のほうが素晴らしいと比較するでもなく

自分の中から出てきたものを尊重する

他者の中から出てきたものも尊重する

 

そんな態度が大切ではないかと

お話を聞きながら感じました。

 

やはり、ご自身の考えをなんとなく述べながらも

結論を出さずに、みなに考えさせるようなお話のされ方をしていらっしゃいました。

 

これがとても勉強になりました。

 

そして、お話が終わって

私がなんとなく考えさせらたのは

 

和の精神とは、

とかく全体主義的な解釈になりがちですが

私も認める、あなたも認める

これが難しい場合に、解決策を諦めないという姿勢ではないでしょうか。

 

お寺の敷地内にあった紫陽花が見事な時期に訪れることが出来ました。

ラッキー♪

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羽田空港神社にお参り

羽田空港内にある、神社にやっとお参りできました。
さんざんお世話になっていて、初めて😅

 

出発は朝早くて、帰りは遅いので機会がありませんでしたが、ようやっと。 

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しかしなんというか、バックの緑が南国の風情…(笑)  

好き嫌いで選ばないメリット・デメリット

ある一定のレベルになると

物事を好き嫌いで選べない時が来ます。

正確には、選ばないで良くなる

という感じでしょうか。

 

以前に、商道の師匠から

「好き嫌いで選ばないこと」ができるようになりなさい

と言われて、

意味が分からん…と思っていたものです。

 

その根底にある思想は「一元論」

人間はみな等しく同じという境地に立て、と言われていたのです。

 

論理にも強く超感覚人間の私にとっては

好き嫌いで選ぶのは自由意志である

とロジック展開して

 

嫌なものは嫌なのだー

好きなものはしゃーない

 

と生きてきたわけです。

 

結論から言うと、

例えば自分の子供に優劣をつけたり、好き嫌いって言えないですよね。

まぁ、やっちゃってる親御さんもいますが。

本来的には、みんな等しく愛するのが正解です。

 

では、

自分の子供だったら等しく愛するのが正解と分かるのに

自分の仕事は?趣味は?付き合う相手は?

かなり選り好みしますよね(笑)

 

あれだけはやりたくないとか、

なんとかだったらやってもいい、とか

是が非でも絶対に欲しい、とか

条件をいろいろつけながら、好みをいろいろ吟味します。

 

まぁ、当たり前といえば当たり前。

選り好みができるって

自由を謳歌している感じがしますよね。

 

師匠いわく

ほんとうの自由とは、どのようなことが目の前に現れても

同じように振る舞い、感じられること。

 

器が大きいひとのことだよ、ということですね。

 

確かに、禅の思想では

「楽しいことをする」のではなく
「することを楽しむ」という考え方があるのです。

後者はかなりのツワモノですね。

 

どんな状況でも受け入れ

自分のベストを尽くす、今を味わい尽くす

というような感じでしょうか。

それも、自然体で

 

そう、自然体でできるようになること

これが理解し、会得できないと

ストレスが溜まる一方になります。

 

ストレスフリーの生き方には2つある

ストレスフリーな生き方には2つあります。

 

一つは、

ストレスになるようなことはしない、やらない、選ばない。

もう一つは、

ストレスとして受け取らない、考えない、感じない

です。

 

結論から言うと、

やらされ感がある場合は確実にストレスになります。

どんなことであっても、やっぱりいやいやなのです。

HaveToは必ず回避行動を取るようになっていきます。

嫌々やっていれば、回避行動を取るために病気になったりするのです。

 

じゃぁ、目の前に

パワハラ、セクハラ、モラハラが渦巻いているような環境があったら

甘んじてそこを楽しめというのですか!

と声が聞こえてきそうですが

 

もちろん、そんなところは逃げて辞めたらいいです。

 

好き嫌いという感情論ではなく

ハラスメントというのは、人権問題という大きなテーマがあります。

そこにフォーカスして問題を解決していく

そのように考えると、面白くないでしょうか。

 

眼の前の嫌なことより、自分を小さくしないことです

今、自分に何ができるのか

ここに好き嫌いの入り込む余地はありません。

 

さて、これ取り組む?取り組まない?と選ぶことができるのが

自由意志です。

この時に、やらされ感は0になります。

 

たまたま目の前に、ハラスメントという問題があって

今自分に何ができるのかに取り組んでいったら

そこには、結果がどうであろうと

「とてつもない経験値」を得ることができるのです。

 

天命を受け入れる

 

というのは、本当にやるとするならば

結構な覚悟が要ります。

だって、目の前のことに敵前逃亡ができないわけですから。

 

天命とは、なにか大きな大事業のことではなく

目の前の出来事の積み重ね

自分の生きる姿勢の集積結果です。

 

選り好みしていては積めなかった

スキル、経験値、隠されていた才能の開花、思いもよらなかったチャンス

などなど副次的なご褒美がたくさんあるのです。

 

これが何にも代えがたい財産・資産の「智慧となるわけです。

 

この智慧を使って、更に大きなものごとへ扉が開きます

次なるステージのチャレンジ権を得るのです。

 

この境地になるまでに、私もずいぶんと時間がかかりました。

否、まだまだ選り好みしているかも知れません。

 

が、できる限り逃げないようにしています。

むしろ、先んじて出ていけるように鍛えている最中です。

 

好きなものは?って聞かれたら

「旨い飯」

って答えますが(笑)

 

眼の前の状況があったら

好き嫌いで判断せず

「自分は何ができるだろうか?」

これが条件反射で出てくるようになったと思っています。

 

好き嫌いの判断は過去情報の参照結果

結局、人の好き嫌いという好みは、過去の学習結果なのです。

好き嫌いで選ばないメリットは

コンフォートゾーンを変えられる、ということです。

 

好き嫌いに縛られていると、同じコンフォートゾーンでうろうろするだけです。

 

分かりやすい話、

恋愛で失敗続きの人は、同じような失敗パターンを持っている人を

好きになるという恋愛パターンがあるからです。

単純な話、そういう人を好きになってはいけないのです(笑)

 

好きになる人を変える必要があります。

 

優しくて誠実な人がいい〜!といっている割には

なんとなく突き放してくれる人に惹かれてしまう、とか

追いかける恋にアドレナリンが出てしまう

これもパターンなわけです。

 

『この眼の前の人のために、私は何ができるだろう』

こんなのがポリシーの人は

 

誠実な人しかよってこないですよね(笑)

 

その中から、選べばいいわけです。

 

面白いもので、選り好みしないほど

好き嫌いで物事を判断しないほど

厳選されたものごとがやってくるのです。

 

厳選された、というのは

安易で容易な、ということではないですよ。

難しく、ハードかも知れませんが

著しく、結果的に成長してしまう出来事です。

ただ、本人が自然体に振る舞えれば

それはストレスに感じることではなく

「することを楽しむ」

という境地で過ごすことができるのです。

 

さて、『自然体』とは一体何でしょうか。

 

ぜひちょっと考えてみてください。

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